銀色ではないのに、なぜ銀閣寺と呼ばれるのか?

日本史でもよく出てくる話題、疑問ですよね。

色々所説あるようですが、私と同じく昭和生まれの方は、

元々は銀箔を貼る予定だったが、財政が苦しくなり銀箔を貼れなかった

と、学校の日本史の授業などで、教わったと思います。

室町幕府8代将軍である足利義政が銀閣寺を建てようとしましたが、時期は応仁・文明の乱直後。
戦乱により、財政難におちいり、銀色にするつもりが、銀箔を貼れなかったと。

確かに、これも1つの説ではありますが、最近になって、歴史検証・学術調査により、色々な事実が分かってきました。

今回は、銀閣寺が銀色でもないのに、なぜ銀閣寺と呼ばれるのか?について、上記とは別の所説とも合わせて説明します。

金閣寺に対して銀閣寺と呼ばれるようになっただけ

最も有力な説と考えられます。

足利義政は、3代将軍足利義満が建てた金閣寺を参考にして建造したとされています。

ただし、金閣寺も銀閣寺も正式名称ではありません。
高校の日本史などでも習いますが、金閣寺の正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」、銀閣寺は「慈照寺(じしょうじ)」となります。

そして、鹿苑寺は、実際に境内にある舎利殿に金箔が貼られ、きらびやかな金色が映えていますね。
この金色の部分がインパクトがありすぎて、金閣寺と呼ばれるようになりました。
時期は定かではありませんが、足利義政が銀閣寺を建てていた間には、すでに「金閣」という言葉が使われていたようです。

対して、慈照寺が銀閣寺と呼ばれるようになったのは、江戸時代なってからのこと。
そもそも、室町時代から江戸時代までは、銀閣寺という呼び名は存在しなかったのです。

江戸時代になってから、
「慈照寺は金閣寺に似てるよね~、だから、金閣寺になぞらえて銀閣寺と呼ぼうか!」
といった感じで、銀閣寺と名付けられたと考えられています。

元々銀箔を貼る予定もなかった。
北山の金閣寺に対して、東山の銀閣寺と呼ばれるようになった。

ただ、それだけのこと。

ロマンも何もないですが、現在では、これが最も有力な説と考えられています。

銀箔をはる前に足利義政が亡くなってしまった

銀閣寺を建てようと思い立ったのはいいものの、足利義政は銀閣寺が完成する前に亡くなっています。

そのため、元々は銀箔を貼る予定であったけれども、完成前に足利義政が亡くなったので、わざわざ銀箔を貼らなくてもいいんじゃない?ということになったという説もあります。

冒頭で述べた、財政難のため銀箔を貼れなかったという説があるので、足利義政が亡くなってから、時の権力者たちが銀箔を貼る費用をケチったと考えられなくもないですね。

元々は銀でおおわれていたが、はがれ落ちてしまった

元々、銀閣寺は銀で覆われていたけれども、戦乱により、銀箔がはがれ落ちてしまったという説もあります。

しかし、2007年に奈良文化財研究所が科学的調査を行ったところ、銀閣寺の外壁に銀箔が貼られていないことが明らかになりました。
これは、結構有名な話ですね。

この調査により、銀閣寺に元々銀がはられていたという可能性は、ほぼ無くなりました。

日光の具合で銀色に見えるから

現存する銀閣寺は、黒漆塗です。
そして、科学的調査からも、おそらくは建立当初から黒漆塗であった可能性が高い。

ですが、天気の具合、日光の具合によっては、銀色に見えなくもない。

また、銀閣寺の庭には錦鏡池(きんきょうち)という池があり、そこから反射する日光によっても、銀色に見えなくもない。

さらに、銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台(こうげつだい)という砂盛りもあり、これらが月の光を反射させて本堂を照らす役割があるとも言われています。

このような環境から、実際に銀色に見えるときがあり、銀閣寺と呼ばれるようになったという説があります。

ただ、私は実際に銀閣寺を数回観たことがありますが、よく晴れた日でも、上層部は黒色にしか見えず、かろうじて中層部分が銀色っぽく見えたという程度です…

とはいえ、金閣寺と対比すると、銀色という表現がしっくりくるかもしれません。
江戸時代から、銀閣寺と呼ばれるようになったのも、このような環境が背景にあったとも考えられます。

まとめ

銀閣寺が銀色でもないのに、なぜ銀閣寺と呼ばれるのか?

おそらく、昭和の戦後の時代は、「元々は銀箔を貼る予定だったが、財政が苦しくなり銀箔を貼れなかった」というのが、最も有名なお話でした。

ですが、現在は、様々な検証や調査がなされた結果、江戸時代に入ってから、金閣寺に対して銀閣寺と呼ばれるようになっただけというのが、最も有力な説となっているようです。

個人的には、銀閣寺が環境によっては銀色に見えなくもないので、江戸時代の人々も、金閣寺になぞらえて銀閣寺と呼ぶようになったのではないかと推察しています。
二つの説をミックスした感じですね。

また、足利義政が銀閣寺を建てた理由は、隠居先として、静かで穏やかな生活を送ろうと考えたというのが、通説でした。

ところが、2020年に、銀閣寺の当初の建設予定地が現在の場所とは違うことが、古文書で明らかになりました。
大阪大谷大学の馬部隆弘准教授による研究結果です。

元々の建設予定地は、現在地より京都の中心地に近い場所。
そのため、銀閣寺の建設理由は、新しい政治拠点を作ろうと、義政が考えた可能性があるとのこと。
静かで穏やかな生活を送るのではなく、政治的意図があった可能性もあるということです。

ここでは本記事の主旨から外れるので、深くは立ち入りませんが。
また機会があれば、詳しくお話したいと思います。