今でも、日本史の教科書や参考書に登場する平賀源内。
私が中学生や高校生のときも、日本史の教科書に載っていました。
江戸時代の後期に活躍し、当時の常識を越え、天才とも言われる人物です。
ですが、日本の歴史上で何をした人なのか、あまり知られていないのが実際のところでしょう。
有名なエピソードとしては、エレキテルを発明したというものがあります。
ただし、正確には、エレキテルを発明したのではなく、復元したというのが事実です。
その他にも、色々な活躍をし、逸話も多いのですが。
なかなかその正体がつかめず、分かりにくいものと思います。
今回は、平賀源内が何をした人物なのか、詳しく説明しました。
平賀源内の残した業績とは?
平賀源内が何をした人なのか、簡単には説明できないところがあります。
平賀源内の本業は本草学者と言われますが、とにかく才能が豊かで、色々な分野で活躍をしています。
儒学、医学、鉱山開発、文学、絵画、発明…などなど。
さすがに活躍の全てを記すとかなり長くなってしまうので、ここでは主なものを紹介します。
日本初のエレキテルを作った
平賀源内の最も有名なエピソードは、日本初のエレキテルを作ったことでしょう。
ただし、あくまでも作ったのであって、発明したわけではありません。
エレキテルとは、摩擦で静電気を起こす装置のことで、オランダで発明されたものです。
平賀源内は、壊れたエレキテルを長崎から持ち帰り、これを修理し復元しました。
平賀源内自身はエレキテルの原理をよく理解していなかったようですが、独自の発想でエレキテルを復元しています。
復元したエレキテルは、元々のエレキテルとはその構造などが違っていたと言われています。
そのため、エレキテルを発明したとは言えないまでも、発明的要素は大きかったと考えられます。
なお、エレキテルはオランダ語の「電気」に関連する言葉であるため、平賀源内が電気を発明したと勘違いしている方も多いようです。
ですが、平賀源内は電気を発明した人物ではありません。
この点は、間違えないようにしたいですね。
また、エレキテル以外にも、平賀源内が既存のものを改良したり、発明したりしたものはたくさんあります。
- ヨーロッパ製の歩数計を改良した量程器(万歩計のようなもの)
- 日本創製寒熱昇降器というアルコール温度計
- 防火用の燃えない布である火浣布
- 水平を示す平線儀
- 磁針器(方位磁石のようなもの)
などなど。
あまり実用的でないものまで含めると、とんでもない数になります。
これだけの発明品や改良品を生み出したのですから、やはり平賀源内は江戸時代の最大の発明家であることは間違いありませんね。
鉱山の開発や鉱物を採掘した
平賀源内は長崎に遊学したとき、鉱山の採掘や精錬の技術を学んでいます。
その知識をいかし、1761年には伊豆で鉱床を発見しています。
このころ、時の江戸幕府の老中・田沼意次にも知られるようになり、幕命の命で芒硝(硫酸ナトリウムの総称)の採取も行いました。
このときは、鉱山の開発を行う山師のような職業で、全国各地を転々としていた模様です。
さらにその後も、秋田藩に依頼され、鉱山開発の指導をしたこともあります。
芸術作品もたくさん残した
平賀源内は、数多くの文学作品も残しています。
今でいう大衆小説のような戯作と呼ばれる読み物や、当時流行した浄瑠璃作品も手がけています。
しかも、これらの作品は当時の人々に親しまれ、かなりの人気作家であったようです。
江戸時代に、西洋画や源内焼を広めたのも平賀源内の業績です。
また、あの「解体新書」の著作者である杉田玄白とも親交があり、杉田玄白が「解体新書」を発行しようとしたときも、一役買っています。
解体新書に挿絵が必要となり、杉田玄白が平賀源内に相談したところ、平賀源内は自分の知り合いである小田野直武という人物を紹介しました。
秋田藩に鉱山開発の指導を頼まれたときに、平賀源内と小田野直武は知り合ったようです。
平賀源内自身も画家としては才能は高く、油絵や焼き物などを作成しています。
ですが、自分より小田野直武の方が才能があると判断し、彼を紹介しました。
この判断は大正解!
解体新書の発刊まで約半年しかなかったにもかかわらず、小田野直武はその短期間で全ての挿絵を完成させ、歴史的偉業に加わることとなりました。
土用の丑の日に鰻を食べる風習を広めたというのはウソ?
現在も、土用の丑の日にウナギを食べるという風習がありますね。
この風習を発案したのも、平賀源内と言われています。
江戸時代の人々も、夏の暑い日に、こってりしたうなぎの蒲焼きをすすんで食べたいとは思わないものです。
そこで、当時のうなぎ屋さんが平賀源内に相談したところ、「本日 土用丑の日」という看板を出すことにしました。
すると、その看板を見た人たちがうなぎ屋に訪れるようになり、お店は大繁盛したという逸話があります。
これも有名なエピソードで、ここから土用の丑の日にうなぎを食べるようになったのは、平賀源内のキャッチコピーのおかげだったというものです。
ところが、実際には、この話は怪しいと考えられています。
というのも、平賀源内が誕生する前から、土用の丑の日に鰻を食べるという風習はあったからです。
また、平賀源内がうなぎ屋に看板を出すことを提案したと確認できる資料もありません。
明治時代に、とある随筆に平賀源内が土用の丑の日に鰻を食べるという風習を作ったと書かれていますが、これも全く根拠のないものだそうです。
ただし、平賀源内がウナギを食べる風習を作ったではないにしろ、その風習を広めたという可能性はあると思います。
先のキャッチコピーのエピソードは本当の話かどうか分かりませんが、平賀源内ならやりそうなことでしょう。
個人的には、それに近い出来事があって、土用の丑の日の風習が定着したのではないかと推測しています。
平賀源内はどんな性格だった?
平賀源内の性格は、一口に言うなら、喜怒哀楽が激しかったと考えられています。
景気のいいときは調子に乗ってしまうことが多いものの、うまくいかないときは落ち込むことが多かったようです。
鉱山開発をしていたときは、もろにその傾向が大きかったようで。
金銀がたくさん出てくると予想し、有頂天になったかと思えば、予想が外れて少量の金銀しか得られなかったときは、かなりふさぎ込んでしまったという話があります。
特にお酒が入ると酒癖が悪く、激怒してしまうこともしばしば。
それがもとで色々と失敗もしています。
ただし、もともとは面倒見のよい性格であり、頼まれると断ることができないタイプであったようです。
また、男色家であり、生涯にわたって身を固めることはありませんでした。
歌舞伎役者らをひいきにしては、親切にしていた模様です。
平賀源内の悲しい最期とは?
様々な分野で才能を発揮し、天才的な業績を残した平賀源内ですが。
その最期はあっけなく、悲しいものでした。
ある日、大名屋敷の修理を頼まれたときのこと。
平賀源内は、修理計画書がなくなっていることに気づきます。
このとき、平賀源内は酒に酔っており、2人の大工の棟梁が盗んだものと勘違いしていまいます。
激怒した平賀源内は、なんとその2人の棟梁を斬ってしまい、斬られた2人は亡くなってしまいました。
この罪に問われ、平賀源内は牢獄に入れられます。
そして、獄中で過ごしている間に破傷風にかかり、それがもとで亡くなってしまいました。
享年52歳とされています。
親交のあった杉田玄白が葬儀を行おうとしますが、幕府から許可がおりず、墓碑もない、遺体もない、寂しい葬儀となりました。
ただし、平賀源内の最期については諸説あり、田沼意次にかくまわれて密かに亡くなったいう話もあるそうです。
いずれにせよ、投獄されたのは事実のようで、もったいないというか、やるせない気持ちになりますね。
まとめ
以上説明したとおり、平賀源内は色々な分野で活躍した人物です。
江戸時代の後期にあって、当時としては型破りで天才だったというのは事実でしょう。
いや、天才というよりは、異才・奇才という表現の方がしっくりくる感じがします。
ですが、平賀源内の最期は、悲しく寂しいものでした。
一説によると、大名屋敷の修理のときに妨害などがあり、自分の思い通りに進めることができず、余計に酒におぼれるようになったと言われています。
天才であるがゆえに、周囲の理解が得られなかったのかもしれません。
日本にかぎらず、また時代をとわず、天才と呼ばれる人物は非業の死をとげるケースがよくあります。
平賀源内も、そういう人物だったのかなと思うところがありますね。