室町幕府の歴代の将軍を、簡潔なエピソードと共にまとめました。

おそらく、その存在さえ知らなかった将軍も数多くいるのではないでしょうか。

波乱万丈だった足利将軍たちの生涯をお楽しみくださいませ。

初代 足利尊氏(たかうじ)

  • 生年月日:1305年8月26日
  • 没年月日:1358年6月15日
  • 在位:1338年9月24日~1358年6月7日

言わずと知れた、室町幕府の創始者で初代将軍。

鎌倉幕府の御家人で、足利氏本宗家の8代目棟梁。

歴代当主の慣例に従い、初めは当時の執権の北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていましたが、鎌倉幕府滅亡後に勲功第一とされ従三位に叙任し、後醍醐天皇の諱である「尊治」の一文字をもらい受け「尊氏」と改名しました。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が行われますが、尊氏は要職についておらず、これには天皇が遠ざけたとも、尊氏自身が政権から距離を置いたとも言われており、どちらが正しいかはハッキリしていません。

その後、北条氏の残党による反乱が起こり(中先代の乱)、尊氏は鎌倉に向かい乱を鎮圧します。

そして、そのまま、武功をあげた武士たちに独自に恩賞を与えはじめ、京からの上洛の命令も拒否して、鎌倉に留まりました。

これに対して、後醍醐天皇は尊氏討伐の兵をあげます。

尊氏は赦免を求めようとしましたが、部下たちの説得により、天皇に反旗を翻すことを決意します。

一時は新田義貞や楠木正成の討伐軍に大敗し、九州まで落ちのびたこともありますが、京を奪還することに成功し、後醍醐天皇と和睦を結びました。

ここに尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立します。

一方で、後醍醐天皇は吉野に脱出し、新たに南朝を開いたため、南北朝時代が始まりました。

室町幕府成立後、尊氏は政務にほとんど関わらなかったようで、専ら弟の直義に任せていたようです。

直義はかなり優秀な人物だったようで、尊氏のカリスマ性と直義の実務能力が合わさって、室町幕府が機能したと考えられています。

しかし、幕府内で直義を快く思わない勢力が台頭し、やがて尊氏と直義の対立という形にまでもつれこみました。

尊氏と直義の争いは、尊氏の勝利に終わり、直義は捕らえて鎌倉に幽閉され、そのまま急死してしまいました(観応の擾乱)。

幼い頃から仲のよかった兄弟が、幕府成立後になぜ対立してしまったのかについては諸説あります。

尊氏の無頓着な性格、尊氏と直義の政治の理想の違い、義詮(尊氏の嫡男)と直冬(尊氏の側室の子で直義の養子)の微妙な関係などなど…

そして、尊氏の晩年は、南朝や旧直義派の勢力との戦いにあけくれ、幕府の政権が不安定なまま、亡くなりました。

享年54(満52歳)でした。

2代 足利義詮(よしあきら)

  • 生年月日:1330年7月4日
  • 没年月日:1367年12月28日
  • 在位:1359年1月7日~1367年12月28日

初代将軍・尊氏の嫡男で、母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹(尊氏の正室の赤橋登子)。

初代将軍の尊氏と3代将軍の義満に比べると、知名度はかなり低いですが、幼少時は新田義貞の軍勢に参加して多数の兵を集めたり、将軍になってからも室町幕府の中央集権化に尽力しています。

義詮の代は、まだ南朝の勢力が健在で、さらに幕府内部でも権力抗争が絶えませんでした。

その中で、義詮は南北朝の動乱をほぼ終結させて、室町幕府を安定させた立役者というべき存在です。

また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸としましたが、これが後に「花の御所」と呼ばれるようになりました。

3代 足利義満(よしみつ)

  • 生年月日:1358年9月25日
  • 没年月日:1408年5月31日
  • 在位:1369年2月7日~1395年1月8日

第2代将軍・義詮の息子で、母は側室の紀良子。

父の義詮の死去にともない、わずか10歳(数え年)で将軍家の家督を継ぎ、その翌年に正式に3代将軍に就任しました。

義満の治世時は、南北朝の統一、鹿苑寺(金閣)の建立に代表される北山文化、明(当時の中国)との勘合貿易の開始など、政治・文化・経済すべての面において、室町幕府の最盛期を迎えました。

室町幕府の「室町」という呼び名も、義満が邸宅を北小路室町(花の御所)へ移したことにより、義満が「室町殿」と呼ばれたことから、後に歴史用語として定着したものです。

また、朝廷内では太政大臣にまで昇りつめ、武家出身者としては平清盛に次いで2人目。

さらに、征夷大将軍と太政大臣の両方の地位を経験したことがあるのは、日本歴史上、足利義満一人のみです。

最終的には皇位を奪うことを狙っていたとも言われていますが、近年はこの説に否定的な見解が多いようです。

義満の意に逆らうことができる者は誰一人しておらず、栄華を極めた将軍ですが、病には勝てず51歳(満49歳)で亡くなりました。

4代 足利義持(よしもち)

  • 生年月日:1386年3月12日
  • 没年月日:1428年2月3日
  • 在位:1395年1月8日~1423年4月28日

3代将軍・足利義満の息子で、母は側室の藤原慶子(安芸法眼の娘)。

わすか9歳(数え年)にして、義満より将軍職を譲られ4代将軍に就任します。

しかし、義満の存命中は実質的な権力は義満が持っており、義持は形式的な行事のみ行っていたようです。

さらに、義満は義持の異母弟である足利義嗣(よしつぐ)を寵愛したこともあり、義持と父・義満とは不仲であったとされます。

そのためか、義満の死後は、義満が建てた北山第を鹿苑寺(金閣の部分)を除いて取り壊したり、勘合貿易を中止したりと、父とは真逆の政策を行いました。

また、異母弟の義嗣に対しても、前関東管領であった上杉禅秀が反乱を起こした際に、内通の疑惑により義嗣を殺害しています。

ただし、これは当時の情勢から仕方のないところもあったようで、義持自身は、勢いを盛り返す守護大名や朝廷に対して調整役としてうまく立ち回り、比較的安定した幕府政権を築いたとされています。

将軍在任期間も28年と、室町幕府歴代将軍の中で最も長いものでした。

5代 足利義量(よしかず)

  • 生年月日:1407年8月27日
  • 没年月日:1425年3月17日
  • 在位:1423年4月28日~1425年3月17日

4代将軍・足利義持の嫡男。

義持の子供の中で元服まで存命しているのは義量だけだったこともあり、父・義持はかなり寵愛していたと言われています。

その父から将軍職を譲られますが、そのときの義量の年齢は17歳(数え年)という若さでした。

しかし、生来病弱であり、しかもかなりの大酒飲みとあって、健康をどんどん害してしまいます。

そして、将軍在職からわずか2年後に逝去。

19歳(満年齢で17歳)という早すぎる死でした。

お酒の飲みすぎに対しては、父の義持も心配し本人に注意をしていたと言われています。

ただし、義量が大酒飲みだったとする資料は存在せず、事実はどうであったのかは専門家の間でも意見が分かれているようです。

義量には嗣子がおらず、しかも義持にも他に男子がいなかったため、義量の死後は、義持が将軍代行として1428年に亡くなるまで政務をとることになりました。

6代 足利義教(よしのり)

  • 生年月日:1394年7月11日
  • 没年月日:1441年7月12日
  • 在位:1429年4月18日~1441年7月12日

第3代将軍・足利義満の子で、母は側室の藤原慶子。

第4代将軍・足利義持の同母弟にあたります。

将軍になる前は、比叡山延暦寺の住職となり、一時期大僧正も務めました。

5代将軍の義量が急死した後、父の4代将軍・義持も危篤に陥りますが、後継者の指名を拒否しました。

そのため、石清水八幡宮でくじ引きを行い、義教が将軍に決まります。

この逸話から義教のことを「籤引き将軍」と呼ぶことがあります。

将軍就任後は積極的に政務に軍事に取り組みましたが、ときおり独断的な傾向がありました。

延暦寺の取り込みを図ったため延暦寺と抗争になったり、鎌倉公方の足利持氏の討伐(永享の乱)、さらには有力守護大名らの家督継承に干渉して、将軍の関与を強めるなど。

これらは先代の義持からの将軍の権威の失墜を回復させる目的があったと考えられますが、その一面で、義教自身の性格に万人恐怖があり、細かなことでも厳しい処罰をする傾向があったことも関係しているとされています。

これらの所業により、身の危険を感じた当時の播磨・備前・美作の守護大名・赤松満祐により、義教は暗殺されてしまいました(嘉吉の乱)。

将軍の権威の復活を図り、中央集権化を推し進めた政策には一定の評価はあるものの、義教の政策は恐怖政治に他ならないという考えもあり、歴史家の間でも義教に対しては賛否両論あります、

7代 足利義勝(よしかつ)

  • 生年月日:1434年3月19日
  • 没年月日:1443年8月16日
  • 在位:1442年12月19日~1443年8月16日

6代将軍・足利義教の嫡男で、母は側室の日野重子。

1441年6月24日、嘉吉の変により父の義教が殺害されたため、管領の細川持之らに後継者となることが決められました。

幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)でしたが、後花園天皇より「義勝」の名を与えられます。

そして、9歳(数え年)で元服し、同年に将軍職を継いで第7代将軍となりました。

しかし、在位してからわずか8ヶ月で急死し、享年10歳(満9歳)という若さでした。

死因については落馬や暗殺など様々ありますが、近年は赤痢による病死という説が有力となっています。

8代 足利義政(よしまさ)

  • 生年月日:1436年1月20日
  • 没年月日:1490年1月27日
  • 在位:1449年5月21日~1474年1月7日

6代将軍・足利義教の五男で、7代将軍・義勝の同母弟にあたります。

跡継ぎ問題で応仁の乱を引き起こしたり、幕府の財産を自分の趣味に費やして財政難をまねいたりと、何かと評価の低い将軍ですが…

将軍就任時は意欲的に政務に取り組んでいました。

もともとは将軍の後継者の地位になく、出家して高僧になる予定でしたが、父も兄も相次いで急死したため、将軍家を継ぐことになりました。

8歳(数え年)で家督をつぎ、14歳(数え年)で8代将軍に就任しました。

このときの名は「義成」でしたが、のちに当時の後花園天皇の第一皇子(のちの後土御門天皇)の諱が「成仁親王」となり、天皇候補者の名を使ってはいけないという慣例にならい、「義政」と改名しました。

当初は将軍として積極的に政務を取り仕切った義政でしたが、有力な守護大名らが徐々に政治に介入してきたため、うまくかじ取りができないことに義政もかなり苦悩したようです。

やがて、義政は政治に無関心になり、邸宅や庭園の造営、猿楽、酒宴におぼれるようになってしまいました。

また、正室の日野富子との間に嫡子ができず、義政の実弟の義尋(後の足利義視)を養子にして次期将軍にする予定でしたが、後に富子に男子が生まれたため、富子はこの嫡男(後の足利義尚)を次期将軍にと望むようになりました。

しかし、義政は後継者をどちらにするかにも無関心であったため、この後継者問題が引き金となり、西軍の山名宗全(始め足利義尚方→後に義視方)と東軍の細川勝元(始め足利義視方→後に義尚方)という時の権力者を中心に、全国規模の争いへと発展してしまいました。

これが世にいう応仁の乱です。

山名宗全と細川勝元の両者が亡くなり、その後小競り合いは続いたものの、応仁の乱は終結し、これを機に義政は隠居。

隠居後は、さらに文化活動にのめりこみ、銀閣寺を建てたのもこの頃です。

晩年に息子の9代将軍・足利義尚が亡くなった際に、義政も中風で倒れてしまいます。

そして、銀閣が完成する前に55歳(満54歳)で亡くなりました。

文化面では、3代将軍義満が築いた華やかな「北山文化」に対し、わび・さびを重視した「東山文化」を築いた文化人として功績を残しています。

ですが、政治面では室町幕府の衰退をまねいた張本人であることに変わりはなく、一部同情する見解はあるものの、厳しい評価がずっと根づいています。

9代 足利義尚(よしひさ)

  • 生年月日:1465年12月11日
  • 没年月日:1489年4月26日
  • 在位:1474年1月7日~1489年4月26日

8代将軍・足利義政と正室の日野富子の次男。

義政から将軍職を譲られ、義尚は9代将軍に就任しますが、そのときの年齢は9歳(数え年)という若さでした。

そのため、しばらくは義政と日野富子夫妻らが政務を取り仕切っていました。

その後、義尚自ら政務を取り仕切ろうとしましたが、父の義政が実権を手放そうとしないため、義政との確執に悩まされた時期があります。

応仁の乱後は幕府の権威は衰退したため、勢力を盛り返そうと近江の六角氏征伐に乗り出します。

しかし、六角氏の抵抗は激しく、義尚が死去するまで近江の長期滞在を余儀なくされました。

六角征伐によって幕府の権力は一時的に回復したものの、晩年の義尚は酒色に溺れて政務や軍事を取り仕切ることはなくなってしまいました。

そのため、将軍就任当時は幕府の権威回復に努め、名君という評価もありましたが、晩年は室町幕府の将軍の権力の弱体化を招いたたとされています。

それ以外の評価としては、一条兼良から政道や和歌などを学んだこともあり、文化人としての評価は高いものがあります。

10代 足利義材(よしき)→義稙(よしたね)

  • 生年月日:1466年9月9日
  • 没年月日:1523年5月23日
  • 在位:1490年7月22日~1493年8月11日
    1508年7月28日~1522年1月22日(義稙に改名)

父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟の足利義視、母は裏松重政の娘・日野良子(日野富子の妹)。

初めの名前は義材(よしき)で、後に義稙(よしたね)と改名します。

将軍在職時期が2つに分かれている珍しい存在でもあります。

9代将軍の足利義尚が死去したあと、義材と義澄(後の11代将軍)の間でどちらを後継者にするか意見が分かれていましたが、足利義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任が決まりました。

しかし、義材が将軍を就任してしばらくしてから自ら政務に乗り出すようになり、それを快く思わなかった当時の管領・細川政元らによって、義澄を将軍にし、義材を将軍から追放するという事件が起こりました(明応の政変)

この後、約13年半もの間、義材は逃亡生活を送ります。

それでも、この間に細川家の内紛が起こり、その機を逃さず有力守護らの援助を受けて将軍職に復帰しました。

義材が義稙に改名したのもこの頃です。

ところが、細川氏の一門の細川高国との確執が起こり、ごく一部の家臣以外は高国に味方するようになり、義稙を見限ってしまいました。

このため、義稙は淡路国に逃れることになります。

この後、淡路国で再起を図って将軍復帰を目指しますが、それは叶うことなく、阿波の地で亡くなりました。

11代 足利義澄(よしずみ)

  • 生年月日:1481年1月15日
  • 没年月日:1511年9月6日
  • 在位:1495年1月23日~1508年5月15日

父は8代将軍・義政の異母兄である堀越公方・足利政知。

室町幕府の将軍職の後継者ではなく、天龍寺香厳院の後継者に定められたため、出家して「清晃」という法名を名乗っていました。

その後、還俗して義遐(よしとお)→義高(よしたか)→義澄(よしずみ)と名を変えました。

10代将軍の足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、細川政元や日野富子(義政の正室)らによって11代将軍に擁立されました。

しかし、その実権は政元や日野富子らに握られ、将軍として政務を取り仕切ることはなかったようです。

そして、1508年に前将軍・義尹(義材から改名)を擁立する大内義興が上洛の軍を起こし、近江国へ逃れて将軍職を廃されてしまいます。

その後も義澄は、何度か勢力を取り戻そうと画策しますが、いずれも失敗。

将軍に復帰することなく、32歳(満30歳)で病死しました。

12代 足利義晴(よしはる)

  • 生年月日:1511年4月2日
  • 没年月日:1550年5月20日
  • 在位:1522年1月22日~1547年1月11日

第11代将軍・義澄の長男で、母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされていますが、異説もあります。

復職した前将軍・義稙(義材)と対立した管領・細川高国が義稙を追放して、義晴が擁立されました。

その後、義晴は元服をすませ、正式に第12代将軍に就任します。

しかし、細川家の内情が複雑で、義晴を支持する者もいましたが、結局細川晴元によって近江に追放されてしまいました。

ただし、義晴を解任しても将軍宣下を受けることが出来なかったので、将軍は義晴のままであったころから、この時期は「近江幕府」と呼ばれたりします。

その後、細川晴元とは和解して協力体制を築きますが、やがて再び対立し、義晴はまだ幼かった足利義輝に将軍職を譲る決心をします。

1550年には義晴は病気がちになり、享年40(満39歳)で亡くなりました。

将軍としての裁量権の強化を図った義晴ですが、細川氏の内紛に翻弄され、思うような成果を上げられなかった模様です。

13代 足利義輝(よしてる)

  • 生年月日:1536年3月31日
  • 没年月日:1565年6月17日
  • 在位:1547年1月11日~1565年6月17日

第12代将軍・義晴の嫡男。

わずか11歳にして父から将軍職を譲られ、13代将軍に就任しました。

このときの義輝の名前は「義藤(よしふじ)」で、義輝に改名するのは後のことです。

義輝の在任時は、室町幕府の権力がかなり弱まった時期で、義輝は将軍の権威復興に尽力します。

京では細川晴元の家臣の三好長慶の勢力が強力になったため、長慶との間で抗争と和睦を繰り返し、最後には長慶を将軍家の勢力復興に利用します。

さらには、将軍親政として、各国の戦国大名の抗争の調停を積極的に行いました。

しかし、三好長慶の死後、家臣であった松永久秀と三好長慶の一族である三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の反目に会い、二条御所で約1万の兵に攻められ、殺害されてしまいます。

生涯将軍家の再興に力を注いだ義輝に対して、近年の歴史家の間では「強すぎた将軍」と評されることがありますが、それがかえって仇となり、自らの死を招くことになってしまいました。

また、義輝は優れた武勇の持ち主としても広く知られており、当時の剣豪であった塚原卜伝の直弟子の一人として、直接剣技を教わったことは有名ですね。

ただし、その腕前はどれほどのものであったかについては詳しいことは分かっていません。

14代 足利義栄(よしひで)

  • 生年月日:1538年or1540年
  • 没年月日:1568年9月or10月
  • 在位:1568年 2月~9月

どうしても影の薄い将軍ですね。

義輝と義昭の間に、義栄という14代将軍がいたことを知らない方も多いと思います。

父は11代将軍・義澄の長男である足利義冬で、義輝とは従兄弟にあたります。

義輝が三好三人衆らによって殺害された後、三人衆らによって将軍として擁立されました。

しかし、その実権は三好三人衆や松永久秀に握られ、完全な傀儡政権だったようです。

さらに、将軍に就任してから三人衆と松永久秀との間で抗争が起こり、入京することができませんでした。

そして、織田信長が足利義昭を擁して上洛し、三好三人衆らを蹴散らしたため、義栄は阿波に逃れます。

こうして、義栄は阿波の地で入京を果たすことができないまま病没してしまいます。

室町幕府の将軍で、唯一京の都に入ったことのない将軍とされています。

15代 足利義昭(よしあき)

  • 生年月日:1537年12月15日
  • 没年月日:1597年10月9日
  • 在位:1568年11月7日 – 1588年2月9日

12代将軍・足利義晴の次男で、13代将軍・義輝の同母弟にあたります。

室町幕府最後の将軍で、織田信長によって京から追放されたということはよく知られていますね。

ですが、一時は信長を窮地に追いやったこともあり、実はかなりの策略家だったりします。

もともとは仏門に入っており、法名を覚慶と言いました。

義輝が暗殺されたとき、覚慶も幽閉されてしまいますが、義輝の側近らによって脱出に成功します。

その後、足利将軍家の当主になることを決意し、還俗して足利義秋と名乗り、さらに義昭と改名しました。

ところが、京の情勢は不安定でなかなか上洛することができなかったため、尾張の新興勢力であった織田信長を頼ることになります。

このときの仲介役が、当時朝倉家の家臣であった明智光秀です。

信長の警護により上洛に成功した義昭は、正式に15代将軍に就任します。

当初は義昭と信長は協力して事を進めましたが、将軍家再興を目指していた義昭と、自身で天下を統一しようと考えていた信長とはうまくいくはずがありません。

やがて二人は対立し、義昭は信長に対抗するため、浅井・朝倉家や武田家、毛利家に本願寺家や松永久秀、三好三人衆など、有力な大名と結んで反信長連合を作ります。

これが、俗にいう「信長包囲網」と呼ばれるものです。

特に武田信玄の上洛により信長は窮地に陥りますが、信玄が上洛を果たせずに病死したこともあり、信長は危機を逃れ、結果、義昭を降伏させ京から追放しました。

京から追放されたとはいえ、義昭は信長打倒をあきらめず、各地の大名に働きかけを行っていたようです。

しかし、その間に本能寺の変が起こり信長は死去、その跡をついだ豊臣秀吉の時代になると、ついに義昭も将軍家再興をあきらめます。

秀吉からは山城国の1万石の領地を与えられ、文禄・慶長の役では秀吉の要請に従い、200人の兵を従えて出陣もしています。

そして、その直後に義昭は病死しました。

享年61歳(満59歳)。

晩年は秀吉の御伽衆に加えられ、秀吉の良き話し相手であったとも言われています。