穴山小助の出自と物語

穴山小助は真田十勇士の一人で、幸村と年齢も近く容姿も似ていたため、幸村の影武者を務めたことで有名です。

穴山小助の出自は、「真田三代期」によると、武田家家臣の穴山信光の息子であり、同じ武田家重臣の穴山梅雪(信君)の甥とされています。

小助が3歳のときに母が死去し、武田家滅亡後は、父の穴山信光と共に各地の戦場を渡り歩くことになります。

戦場では、いつも父の後ろから槍を構え、その姿が微笑ましいと話題になったところ、幸村に見いだされて幸村の家臣となりました。

関ヶ原の戦い後、幸村は九度山へ配流されますが、小助はわざと行動を別にし、四国に流れて情勢を探ることになります。
このとき、愛媛で漢方医に身を扮していたとされています。

大坂の陣が勃発し、幸村が大阪城に入城すると、小助も幸村に合流しました。

大坂夏の陣で、幸村は現状を打開すべく、自分と背格好の似ている小助に、命をかけて徳川方の越前軍の原隼人に会いにいくよう頼みます。
穴山小助は、幸村の影武者を務めることが本望であると、快く引き受けます。
ところが、原隼人に逆に影武者であると見破られ、この計画は失敗してしまいます。

小助以外にも幸村の影武者はいたものの、戦況がどんどん不利になるなかで、7人もの影武者が討ち死にします。

そこで、小助は、徳川家の重臣・本多忠朝の軍と一騎打ちをしていた幸村と密かに入れ替わり、「我こそは正真正銘の真田左衛門佐幸村なり」と名乗りをあげ、800名もの大軍を相手に奮戦します。
この戦いで、小助は50余名を討ち取りました。

ここで、かの原隼人が現れます。
小助は原隼人と一騎打ちを行いますが、それまでの疲れもあったため、ついに討ち取られてしまいます。

ですが、その裏で、幸村本人は豊臣秀頼を大阪城から脱出させることに成功しました。

穴山小助は見事に自身の役目を果たし、その命を終えるのでした。

穴山小助のモデルとなった人物

穴山小助のモデルとなった人物は、上述の通り、武田家家臣・穴山信光の長男であった穴山小助(あるいは「小介」)その人で、「真田三代期」では、穴山梅雪(信君)の甥であるとされています。

1568年に生まれ、1615年に大阪夏の陣で死去。

ところが一方で、穴山信光という人物自体が存在せず、穴山小助は創作上の人物とする説もあります。

穴山信君は武田家の一門衆であるため、穴山小助が信君の甥であるとすれば、小助は真田家の主君筋にあたります。
武田家が滅亡し浪人になったとはいえ、旧主の一門の人物が幸村の影武者となるのは当時の常識では考えにくいです。

そのため、穴山信君の甥という設定を設け、幸村と真田十勇士に箔を付けたと考えるのが妥当だと思います。