「仏の顔も三度まで(ほとけのかおもさんどまで)ということわざがあります。

文字通りには、3回まで許され、4回目から許されないという意味ですが、元々はその回数は違うものだったようです。

さらにその由来を深く探ると、実はお釈迦様(仏)自身が怒っているわけではないことが分かります。

この記事では、「仏の顔も三度まで」の表現が持つ意味の深さと、その起源について、詳細にわたって解説しています。

仏の顔も三度までの意味は?

「仏の顔も三度まで」は、たとえ寛容な人でも、繰り返し無礼な行為をされると、いずれは怒るという意味です。

ここでの「三度」という言葉は、実際に3回という限度を示しているわけなく、比喩的な表現として用いられています。

つまり、「数回」や「何度も」というニュアンスです。

いくつかの過ちを許すことはあっても、その後は我慢の限界を超えて怒りが爆発することがあるという意味で使われます。

仏の顔も三度までは3回目?それとも4回目?

「仏の顔も三度まで」という表現は、「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹を立つ」という言葉を短縮したものだとされています。

ここから「三度」という数字が重要視されるようになったわけですが、この短縮形と元の言い回しでは意味が異なります。

元々は「三度まで」とは言わず、「仏の顔も三度」というのが正確な表現で、実際は三度目で怒りが来ることを意味していたようです。

ところが、「まで」という言葉が加わることで、意味合いが変化し、四度目からが怒りのポイントと捉えられるようになりました。

つまり、三回目までは許されるということです。

このことわざが広まり始めたのは江戸時代頃で、前述の「仏の顔も三度撫ずれば腹を立つ」という形で用いられていたようです。

明治時代になってから、「仏の顔は三度」という表現に変わり、次第に三度までならば許されるという考えが生まれ、「仏の顔も三度まで」という言い方が一般的になったと考えられています。

仏の顔も三度までの由来は?

「仏の顔も三度まで」は、お釈迦様がいた時代の物語に由来します。

それは次のようなエピソードです。

お釈迦様の故郷であるシャーキャ国の隣に、コーサラ国という強国が存在していました。

コーサラ国の王は、シャーキャ国から将来の王妃を求めました。

ところが、シャーキャ国はコーサラ国の軍事的な威圧を好まず、わざと身分の低い女性を王妃として送りました。

この女性から生まれた王子は、後に自らの出自が明らかになり、社会的な差別を受けます。

成長した王子はシャーキャ国への復讐を決意し、成人後、報復として釈迦国に攻め入ることを決意します。

その攻撃は3回にわたりましたが、そのたびにお釈迦様が現れてコーサラ国を説得し、兵士たちを撤退させました。

しかし、4度目の侵攻時にお釈迦様は介入せず、結果としてシャーキャ国は滅ぼされる運命を迎えました。

また、コーサラ国もその直後に災害で(あるいはお釈迦様が支援していたマガダ国によって)滅びることになります。

この話は、「仏の顔も三度まで」という表現の背後にある深い意味を示しており、一般的には、たとえ慈悲深い仏であっても、限界を超えた行為には寛容でいられないことを教えています。

さて、このエピソードからすると、「三度までは許されるが、四度目には許されない」という意味に捉えられますね。

ですが、お釈迦様は別に怒っているわけではなく、因果応報として諦めの境地に入ったと解釈するのが自然でしょう。

また、お釈迦様は慈悲深い存在で、怒るということは通常ありません。

仏教の世界では、基本的にお釈迦様は何度でも許してくださると考えられています。

上記のエピソードも、シャーキャ国が人をだますようなことをし、またコーサラ国も自制せずに隣国に攻め入るようなことをしたので、その宿縁として滅びることを嘆いたというように解釈されるのが一般的です。

仏の顔も三度までの使い方は?

「仏の顔も三度まで」の使い方として、例文を5つ紹介します。

  • 仏の顔も三度までというように、彼は何度も同じミスをしたため、チームメンバーの忍耐もついに限界に達した。
  • 遅刻が続いた新入社員に対して、上司は最初は理解を示していた。しかし、仏の顔も三度までと考え、厳しい注意をすることに決めた。
  • 母は仏の顔も三度までと言っていた。だから、弟がまた同じいたずらをした時、母はもう笑って許すことができなかった。
  • プロジェクトの締切を何度も延ばしてもらったが、仏の顔も三度までだ。この次は期限を守らなければ、重大な決定が待っているだろう。
  • 彼女は友人の無責任な行動を何度も見逃してきたが、とうとう仏の顔も三度までと心に決め、関係を見直す時が来たと感じた。

仏の顔も三度までの類義語は?

仏の顔も三度までの類義語としては、次のようなものがあります。

地蔵の顔も三度 (じぞうのかおもさんど)

「仏の顔も三度まで」と同様に、仏像や地蔵菩薩のように慈悲深い存在でさえも、何度も同じ過ちを繰り返されると怒るという意味を持ちます。

地蔵菩薩は子供の守り神として知られるなど、特に慈悲の象徴とされているため、その寛容さにも限界があることを示しています。

堪忍袋の緒が切れる (かんにんぶくろのおがきれる)

人が我慢を重ねているが、ある時点でそれ以上耐えられずに怒りや不満を爆発させる様子を表します。

堪忍袋は我慢を入れる袋の比喩で、その緒が切れることで我慢の限界を超えることを意味しています。

兎も七日なぶれば噛みつく(うさぎもなぬかなぶればかみつく)

どんなに温厚または弱々しい存在であっても、繰り返しいじめられたり、からかわれたりすると、いつかは怒りだすという意味です。

兎という通常はおとなしい動物が、連続して7日間も苛められれば最終的には噛み付くように、人もまた限界を超えれば耐えかねて抵抗するということを表しています。

仏の顔も三度までの対義語は?

仏の顔も三度までの直接的な対義語をあげるのは難しいです。

あえて紹介すると、「鬼の目にも涙(おにのめにもなみだ)」が反対の意味に近いです。

どんなに冷酷や非情とされる人物でも、情にほだされる時があるという意味です。

文字通りには、非情で知られる鬼でさえも、時には涙を流すほど感動や同情することがあるということを表しています。

人間性の中にある共感や慈悲の感情を強調し、誰にでも優しさがあることを示唆します。

まとめ

「仏の顔も三度まで」とは、失礼な行為が繰り返されると、温厚な人でも怒り出すという意味です。

もともとは「三度目で怒る」という意味合いだったようですが、日常的に使われる際の「まで」が加わったことにより、その解釈は少し変化しました。

また、この表現の由来にある話では、お釈迦様が怒りを示したわけではなく、むしろ運命や宿縁に対しての嘆きを表したと考えられます。

「仏の顔も三度まで」を用いる際には、その背後にある由来を深く考慮する必要はありませんが、お釈迦様の慈悲深さという本質は理解しておいた方がよいですね、