清水寺は京都にある歴史的な寺院で、観光名所として多くの人に親しまれていますね。

世界遺産にも登録されており、その歴史的価値は誰もが認めるところでしょう。

ですが、そもそもこの清水寺は誰が建てたものなのでしょうか。

意外と知られていないように見受けられます。

一般的に、平安時代初期の武将である坂上田村麻呂が関わったという話がよく知られているようです。

けれども、清水寺の建立には複数の人物の影響があったとされ、その背後には伝説的な物語が隠されています。

この記事では、清水寺の誕生に関する興味深いエピソードを紹介します。

清水寺は誰が建てた?

実は、清水寺は誰によって建てられたのか、ハッキリしたことは分かっていないようです。

清水寺の建立のエピソードは一種の伝説のようなもので、歴史的な確証は乏しいというのが実際のところです。

現在にも伝わっている話としては、行叡居士(ぎょうえいこじ)賢心坂上田村麻呂の3人が関わっているとされます。

それぞれの役割は

  • 行叡居士(元祖):清水寺の元祖とされ、寺院が誕生した元々の理由となった人物です。
  • 賢心(開山):清水寺の開山とされ、寺院を実際に誕生させた人物です。
  • 坂上田村麻呂(本願):清水寺の本願とされ、寺院が誕生した本来の目的を持つ人物です。発起人のような役割を担っています。

となります。

では、清水寺の誕生に際して、3人はどのような役割を果たしたのでしょうか。

それには、次のような興味深いお話が伝わっています。

ある日のこと、賢心という僧侶が不思議な夢を見ました。

その夢の指示に従い音羽山を訪れると、行叡居士という200歳の修行者に出会います。

行叡居士は賢心に霊木を託し、千手観音を彫るように指示します。

賢心は、行叡居士が観音様の化身であると感じ取り、渡された霊木に千手観音を彫り、行叡居士の小屋に安置しました。

後に、坂上田村麻呂が妻の病気を治すために音羽山を訪れ、賢心と出会います。

鹿を倒そうとした坂上田村麻呂に対し、賢心は生き物を殺傷することは罪深いことであると説きます。

この話に感銘を受けた坂上田村麻呂は観音信者となり、観音像を祀るためのお堂を建てました。

これが清水寺の始まりです。

また、坂上田村麻呂は、朝廷から蝦夷征伐を命じられ、その成功を祈願して、清水寺を建てたとも言われています。

無事に役目を果たして帰還した際、坂上田村麻呂と賢心はお堂を拡張しました。

そこに、蝦夷征伐で助けてくれた毘沙門天と地蔵菩薩の像を寺に祀ったとされています。

この時、賢心は延鎮上人と改名しています。

そして、賢心と坂上田村麻呂の努力により建立された清水寺は、810年に嵯峨天皇の公認を受けて正式な寺院となりました。

このように、清水寺の創建には行叡居士が元祖、賢心が開山、坂上田村麻呂が発起人として重要な役割を果たしているというわけです。

坂上田村麻呂は、初代征夷大将軍として有名な人物ですね。

学校の授業や教科書にもよく登場します。

また、賢心(後の延鎮)という僧侶も実在した人物と考えられますが、行叡居士については実在した人物かどうかは分かっていません。

清水寺の過酷な歴史とは?

清水寺は、当初は「北観音寺」と呼ばれていましたが、後に音羽の滝の清らかな水に因んで「清水寺」と改名されました。

さて、平安時代末期には、多くの寺院や神社が自衛のために武装した僧兵を抱えていました。
この時代の寺院や神社は、土地や税の問題で争い、自己防衛のために武装していたのです。

特に力を持っていたのは、奈良の興福寺と比叡山の延暦寺で、これらは「南都北嶺」として知られていました。

清水寺は長い間、興福寺の影響下にあり、南都北嶺の争いに巻き込まれ、何度も焼失しました。
記録に残っているだけでも、9回焼け落ちているようです。

特に応仁の乱の際には、大きな被害を受けました。

この戦乱は、日本の歴史上でも特に激しい内乱の一つであり、多くの寺院や文化財が破壊されました。
清水寺もその例外ではなく、応仁の乱によって大きな損害を受けたのです。

さらに、江戸時代初期の1629年には、大火によって清水寺は再び甚大な被害を受けました。
当時、清水寺自身の領地や収入は限られており、この災害からの復興は困難を極めました。

しかし、徳川家光の寄付によって、寺院は4年後に見事に再建されました。
この再建は、清水寺が現在も京都にその姿を留めている重要な要因となっています。

そして、1994年には清水寺はその歴史的価値と美しさが認められ、世界遺産に登録されました。
この登録は、清水寺が日本だけでなく、世界的にも重要な文化的遺産であることを示しています。

このように、清水寺は歴史の荒波を乗り越え、今日に至るまで多くの人々に愛され続けている寺院です。

その歴史は、日本の文化や伝統の深さを物語っています。

まとめ

清水寺の建立には、坂上田村麻呂が中心的な役割を果たし、賢心と行叡居士の2人も関わっているとされています。

ただし、現在に伝わっている清水寺の誕生のお話は事実かどうかはよく分からないのが実際のところです。

また、清水寺は何度も災難に見舞われ、再建を重ねてきたため、現在見られる建物の多くは坂上田村麻呂の時代のものではなく、徳川家光の支援によって再建されたものです。

とはいえ、文化的・歴史的価値は、その建立の背景や再建の歴史によって失われるものではありません。

むしろ、その誕生に思いを馳せることで、清水寺の深い歴史と文化的意義をより深く理解することができるでしょう。