三好清海入道の出自と物語

三好清海入道は真田十勇士のメンバの一人で、猛突で豪放な戦いぶりから人気のある人物です。

弟の三好伊三入道も十勇士の一人で、兄弟そろって坊主頭で怪力無双の大男として描かれています。

「真田三代期」では、三好清海入道は出羽国亀田の領主であったとされています。

当時の常陸の戦国大名・佐竹家との間で戦が行われますが、敗れたあげく城を奪われてしまいます。

その後、縁のあった真田家を頼るよう家臣に勧められ、様々な騒動を起こしながら旅をし、当時上杉家の人質であった幸村の元にたどり着いたとされています。

第二次上田合戦(関ヶ原の戦い時)では、敵対する幸村の兄・信之軍との戦で、弟の伊三入道と共に殿を務めて大奮闘。
この殿での活躍によって幸村は信之軍を計略に陥れ、大きな痛手を与えることになります。

ですが、史実では、第二次上田合戦で幸村と信之は戦ってはいません。
残念ながら、これは創作されたストーリーということになります。

関ヶ原の合戦後は、幸村に従い九度山に蟄居し、大阪城にも幸村と共に入城するなど、常に幸村と行動を共にしています。
このとき、三好清海入道は90歳、伊三入道は84歳。

最終決戦となった大坂夏の陣では、幸村は豊臣秀頼を連れて薩摩へ落ち延びますが、三好清海入道と伊三入道は徳川家康と秀忠を討ち取りにかかります。
幸村から火薬の計略を伝授された二人は、火薬を爆発させて秀忠軍に突入し、幸村の名を出して秀忠の首を狙いますが、あと一歩というところで逃してしまいます。

「もはやこれまで・・・」と観念した三好清海入道は、自決することを選択します。

その最期は壮絶なもので、馬上で堂々と名乗りを上げた後、十文字に腹を切り、自らの首を落とすというものでした。
この痛々しい最期の様子も一般庶民の心をとらえ、三好兄弟の人気に火を注いだ要因と言えるでしょう。


一方で、立川文庫の「真田幸村」では、三好清海入道は畿内・阿波地方を支配していた戦国大名の三好氏が出自で、破戒僧という設定になっています。

実際、戦国時代の三好家は、三好長慶の代に畿内全域を支配下に置きますが、家臣の松永久秀の裏切りや織田信長の台頭によって、
三好家はその勢力を失っていきます。

そんな状況を背景として、三好清海入道は三好家を出奔します。
その後、武者修行の旅の途中で幸村に出会い、幸村の配下となります。

同じく幸村の配下となった猿飛佐助と共に諸国を歩き回り、山賊を退治したり、手練れの剣士と勝負したりと様々な活躍をしています。

武器は18貫(約70㎏)もある大きな樫の棒。
大きな体で棒を振り回し悪党を退治するも、少し間の抜けた憎めない愛嬌も持ち合わせおり、それが小さな子供たちの人気を博しました。

三好清海入道のモデルとなった人物

三好清海入道も架空の人物ではありますが、猿飛佐助や霧隠才蔵らと比べるとモデルとなった人物はハッキリとしています。

その人物とは、三好三人衆の一人、三好政康と考えられています。
三好家の一門衆として活躍し、三好家を支えた人物です。

ですが、織田信長に敗れたのち、確かな消息はハッキリとしていません。

ただ、入道名が「清海」とされ、大坂夏の陣において、豊臣方に属して戦死した三好清海という人物の名があるため、その人物が政康の後身であるという説があります。

これは定説ではなく俗説扱いとされていますが、三好政康―三好清海―三好清海入道という連想から、真田十勇士の一員となったと考えられています。