望月六郎の出自と物語

望月六郎は真田十勇士の一人で、特に火薬や爆弾の取り扱い・制作に長けた人物とされています。

望月六郎は幼少時から真田幸村の小姓として仕えていました。
そのため、幸村の主立った戦にはほとんど参加しています。

例えば、幸村が小田原征伐に出陣したときには、六郎も付き従っています。
戦では大筒や地雷火の取り扱いだけでなく、諜報活動でも活躍しました。

関ケ原の戦いの後、幸村は九度山に蟄居しますが、六郎はその間真田屋敷の留守居役を務めます。
この役目は、来るべき戦いに備えて、大筒や爆弾などの火薬系の武器を作るという意味がありました。

また、望月六郎は幸村からの信頼も厚く、幸村の嫡男である大助の後見人を務めました。
大坂冬の陣では、大助を補佐し、神崎川の戦いで偽情報を流して敵陣を混乱させ、徳川軍を敗走させています。

望月六郎の最期の戦いとなったのは、他の十勇士と同じく大坂夏の陣でした。

六郎は幸村の影武者となり、徳川方の上杉、佐竹軍に特攻をしかけます。
敵陣の中にあって数多くの敵を倒しましたが、しだいに数に押されて劣勢になっていきます。

もはやこれまでというところで、六郎は小高い丘にのぼり、幸村の名前を名乗って切腹して果てました。
これも計略の一つで、幸村が亡くなったと見せかけ敵を混乱させるに至りました。

望月六郎も見事に幸村の影武者を務めたということです。

望月六郎のモデルとなった人物

望月氏も滋野三家の一つで、もともとは真田家の本筋にあたります。
鎌倉時代に全盛期を迎え、佐久郡から小県郡(長野県一帯)まで勢力を広げていました。
しかし戦国時代になると、武田家や長尾家らとの争いに敗れ、勢力は衰えていきます。
そして、遂には真田幸隆の仲介で武田家に帰順することになり、真田家の臣下に取り込まれることになりました。

この望月氏の一族に望月六郎のモデルとなった人物がいると考えられていますが、望月六郎のモデルについてはいくつかの説があります。

真田家の家臣であった、望月宇右衛門、望月甚左衛門、望月卯兵衛、望月卯左衛門幸忠などの名前が挙がっていますが、この誰かまでは特定されていません。
あるいは、これらの人物を統一して望月六郎が作り上げられたとも考えられています。