由利鎌之助の出自と物語

由利鎌之助は真田十勇士の一人で、槍の達人であった人物とされています。

よく鎖鎌の達人と言われることがありますが、そういう設定はオリジナルにはないようです。
おそらくは「鎌之助」という名前から連想されて、後世の様々な人たちによって創作されたものだ考えられています。

「真田三代期」にその名前があり、「立川文庫」にも「由利鎌之助」の巻があります。

「真田三代期」によると、由利鎌之助は三河国野田城の城主であった菅沼新八郎の家臣であるとされています。

賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家が北ノ庄城で籠城していた際に、羽柴秀吉を援護するため、真田昌幸が三河に出兵し、菅沼新八郎と臣下の由利鎌之助と対峙することになります。

鎌之助は幸村の配下2人をあっけなく倒しましたが、次に出てきた穴山小助との勝負は互角となり、決着は翌日に持ち越されます。
翌日、両者は再び勝負を行いますが、小助は立ち合いもそこそこに逃げ出してしまいます。

「腰抜け!卑怯者!」とののしりながら、鎌之助は後を追いますが、どういうわけか、落とし穴に落ちてしまいます。
実は、この落とし穴は、幸村が仕掛けた罠で、小助と連携して鎌之助をスカウトするために生け捕るものでした。

鎌之助は幸村の知略と度量に感銘を受け、幸村の配下となることを誓うのでした。


一方、「立川文庫」での由利鎌之助の出で立ちは、「真田三代期」とかなり異なります。

「立川文庫」では、鎌之助は丹羽地方の豪族の統領という設定。
自らを浅井家の残党と称し、鈴鹿峠付近の山にこもって山賊稼業を行っていました。

ある日、佐竹家との戦いで敗れた三好兄弟と出会い、ひょんなことから2人と力比べを行うことになります。
実力伯仲のまま力比べは終わり、兄の清海入道はそのまま去っていきます。

しかし、弟の伊三入道とは気が合い、伊三入道を相棒にして、2人で山賊稼業にいそしむことになります。

その後、2人は幸村の配下となった清海入道と再会し、清海入道の口添えにより、2人揃って幸村の配下となりました。


関ヶ原の戦いの後、由利鎌之助は幸村に同行せず、江戸に残って槍の道場を開きます。
これは、江戸の情勢を探るためのものでした。

得意な槍を活かしたものですが、実は、同じく槍の達人であった後藤又兵衛と勝負をし敗北しています。
そのため、鎌之助自身は「天下第二の槍の名人」と名乗っていました。

やがて、幸村が大坂城に入城すると、鎌之助も行動を共にします。

幸村の信任も厚くなり、重要な作戦には必ず参加するようになりました。

大坂冬の陣では、幸村と共に徳川家康を後一歩のところまで追いつめています。

ところが、この活躍を最後に、鎌之助のその後はハッキリしていません。
大坂夏の陣で討ち死にしたという話もあれば、幸村や猿飛佐助と共に薩摩へ落ち延びたという話もあります。

「立川文庫」では、子供たちの夢を壊さないという配慮のためか、薩摩へ落ち延びたという結末になっています。

由利鎌之助のモデルとなった人物

由利鎌之助のモデルとなった人物は、同姓同名の幸村の家臣とされています。

元々は、真田家と争っていた人物のようですが、幸村に捕まり、そのまま家臣として取り込まれました。
以後、昌幸と幸村に付き従い、活躍を重ねていったと言われています。

ですが、時代背景からして、幸村が戦に参戦するのはかなり後のことなので、この人物の信ぴょう性は薄いと考えられます。
そのため、創作上の人物であるという説の方が有力になっています。